Gallery
個展 名前を知らない死者を想う為
2019年7月1日(月)~6日(土)
GALLERY b. TOKYO (東京)
名前を知らない死者を想えることは、人類にとってどの様な意味があるだろうか。
自分の身内でもなく、知人でもない人の墓や慰霊碑の前で、私たちは一体何に思い馳せるのか。
或いは、特に何も思うことなど無いのか。
漠然とした「死者」を想うということは、私たちにとって一体何なのか。
また、私にとって、何故その問いが重要なのか、必要なのか。
近年はその問いへの入口を作っている。
お越しいただいた方々に展覧会のレビューをいただきました
物語作家
最合のぼる 様
詩人・川津望氏の出演公演で初めてその舞踏と演技を目にした町田藻映子氏。本来画家である氏の個展最終日に行ってきた。
石をモチーフにした作品群は何とも不思議な印象で、湿り気を帯びた土の匂いと共に胸の辺りをざわつかせる。墓標的なイメージながらも「生」を強く感じさせるのは、画家自身の強さかもしれない。
ご本人は舞台で受けた印象よりも、ずっと小柄な方だった。またの機会を心待ちにしたい。
詩人
田野倉康一 様
GALLERY b.TOKYOにて『町田藻映子個展 名前を知らない死者を想う為』
去年、シェル美術賞展で初めて見ました。
今年、脳髄をひっつかまれるようなすごい舞踏を、貝ヶ石奈美さんとのセッションで見ました。
そしてこの個展!墓マニアで火葬場マニアの田野倉をゾクゾクさせるような絵の数々。それは人間の生を単細胞レベルから(DNAレベルではない、念のため)揺さぶる力を持っていました。すべての芸術にかかわる者、必ず見るべし!!
詩人
川津望 様
石のめぐり
めぐるものの縁から
腕を呼んできた
遠縁に無限がいる
からだの中に蓋は無数にされ
ひとつは粉をふいている
甕に入る限界まで増してくるまなざし
窪地にそだつ生態系が
どれだけ崩れたら
胃ぶくろから休みなく喰われてゆく時間
巻きもどさずにすむだろう
混ざいしてみつめかえす
苔が雪原だったころの白夜を含んだ照りかえし
青に隔てられようやく追いつくのに
生のしぶとさで名指すまえにうごくから
いしとわたしのあいだで
あなたたちは器官だ
にぎやかな天井に鼓まくをあずけるうち
闇に洗われながら
かがやく爪だけを身につけて
無心で消えてゆく
息の陥没する川床では
撫でられることで看過される緑地をかさね
指は絶頂を感じ
かそけき分泌によりうるおう田畑
仮留めされた突端で
あなたたちを汲んでは
布を叩くと血管が浮きあがるように
声をかけなければ絶えてしまう
痛みの集落では
何度も溶かされるために
ゼニゴケの連なりがどこか毀れ
まどかな金でつぐ
町田藻映子 個展
名前を知らない死者を想う為
その周辺より
於 GALLERY b. TOKYO
oboist, piano improviser
entée 様
『流態城市』で素晴らしい踊り(舞)を見た美術家・町田藻映子さんの個展『名前を知らない死者を想う為』に初日に立ち合えた。2019年7月1日。京橋のGallery B. Tokyoにて。純粋に偶然らしいのだが、町田さんの描くテーマは死者との邂逅(不正確な記述はご容赦を)。奇しくも川津望さんの描き出す世界と重なるところがあり、とても不可思議な気持ちになる。
描かれている石の中から毎日ひとつ決めて、ひとつひとつと会話ができると、感じるほどの何か。転じて、本物の石にまなざしを向けたいとさえ、感じる。
観る人の数だけ感じ方は違うだろうから自分の見方が絶対だと言う気は毛頭ない。だが自分には「墓石のように見える何か別のもの」を絵から想像したため、町田さんの絵が本当に墓地を取材した後に描かれたものであるという事実に、むしろ違和感を覚えたほどだった。だが「墓石のように見える何か別のもの」は、墓石であった。しかるに、墓石は町田さんの絵の中であのように並べられることで、家族のようになり、親子のようになり、兄弟のようになり、そして恋人同士や仲睦まじい夫婦のようにもなる。そして墓地全体が「世間」のようにもなる。死んだ人を忘れないための石自体が、突然生き生きと生き始めて生前の生きた人々を象徴し始める。死者が生者であり生者が死者である。本物の墓場で私はそれを感知できないが、そのような逆説的な層で町田さんの絵は語りかける。死が生き生きと生きている。生きている鑑賞者が仮死のように息を潜める。それで描かれている石の中から毎日ひとつ決めて、その物語を語ることができると感じたのである。
「日本画は対象そのものを描く。背景はない。」というような解説を芸大の日本画に進んだ友人が何も知らない自分に説明したことがあった。伝統的日本画の定義のひとつであろう。30数年前の思い出だ。もちろん日本画を日本画ならしめる要素には顔料の種類とか、描かれる下地の種類とか、色々な定義があるのだろうと想像するが、町田藻映子さんの作品には背景がある。西洋絵画のような遠近法もあるように感じる。
一方、対象に迫ろうとする眼力というものも十分に備わっていて、彼女が「苔を描いた」と言うその絵に、自分は粘菌のような不可思議な流態を採る生き物の強い生を感じた。それで粘菌の話を振ってみたら、なんと町田藻映子さんは粘菌の飼育をする人なのであった。作品というものは、おそらく創る当人が考える以上のものを常に語るものなのである。音楽はそもそもそういうものだが、美術も例外ではなかったのである。